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浄春寺-壬生勝鬘山-上六うえいくネット(大阪市天王寺区)
上本町・上六うえいくネット-食べる-遊ぶ-暮らす-学ぶ-装う-泊まる
夕陽の美しい坂上の寺に
文人・学者たちが眠る
「天王寺七坂」の一つ、口縄坂の坂上に佇む浄春寺。曹洞宗の寺として1560年に開山以来、現在の住職で27代を数える寺ですが、その歴史はさらに古く、平安時代の公卿で歌人であった藤原家隆の菩提所として開かれたと伝えられます。
藤原家隆は『新古今和歌集』の撰者として知られ、1237年に病を得て79歳で出家して、天王寺に入りました。「夕陽ヶ丘」の地名は、家隆が晩年を過ごした夕陽庵(せきようあん)に由来すると伝えられています。
千利休も高く評価した家隆の歌は、繊細かつ純朴。その歌風に「わび、さび」の精神を見てとった松尾芭蕉は、家隆を慕って門弟とともにたびたび夕陽ヶ丘を訪れています。芭蕉が没した後、門弟たちが芭蕉が反故にした歌を焼き、また遺髪を埋めて建立したという反故塚(ほごづか)が山門横に残されています。
浄春寺には、日本の天文学の礎を築いた麻田剛立(あさだごうりゅう)の墓が残されています。1734年(享保19年)に豊後の杵築藩に生まれた剛立は、幼い頃より勉学に優れ、独学で天文学・暦学を学びました。後に医学を学び医者となり、1771年(明和8年)に脱藩して大阪に来て、医者として生計を立てるかたわら、天文学・暦学の研究を続け、各種の器械を作って観測を行ない、また私塾「先事館」を開き、後に幕府の天文方となる高橋至時(たかはしよしとき)や間長涯(はざまちょうがい)など、後進の指導にも力を尽くしました。剛立の先進性は、天体に関するケプラーの第三法則と同じ法則を、全く独立して発見したという事実に表れています。
剛立は、坂の多い風景が故郷・杵築に似ているところから、夕陽ヶ丘をこよなく愛したといいます。1799年(寛政11年)に66歳で没した後、浄春寺に葬られました。
浄春寺にはまた、日本の接骨医学・骨格学の祖といわれる各務文献(かがみぶんけん)の墓も残されています。大阪の横堀で生まれた文献は、若い時から医者を目指し、京都で産科を学んで、優れた助産器具を考案しました。文献は「人間の根幹は骨と関節だ」という考えを強く持ち、幕府の咎めも恐れず無許可で死体の解剖を行ない、骨の形、大きさ、関節の動きなどを調査研究して、木製の精密な骨の模型を作りました。その集大成として1810年に発表された『整骨新書』は、未だに日本で最高の接骨医学書との評価を受けています。
文献は愛妻家として知られ、21も歳の離れた夫人は、優秀な助手として生涯文献を支え、その死後は自らが接骨医学の治療を行ない、その技術を娘婿に継承しました。文献の墓の横には、生前と変わらずぴったりと、夫人の墓が寄り添っています。
名称
壬生勝鬘山 浄春寺
業種
寺院
所在地
〒543-0075
大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町5-3
アクセス
地下鉄 四天王寺前夕陽ヶ丘駅から徒歩3分
電話番号
06-6771-5048