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藤次寺-如意山-上六うえいくネット(大阪市天王寺区)
上本町・上六うえいくネット-食べる-遊ぶ-暮らす-学ぶ-装う-泊まる
大阪の融通さんには
今も多くの参詣客が集まる
地下鉄谷町九丁目駅のほど近くに佇む藤次寺。開山は弘仁年間(810〜824)と伝えられ、現在の住職、桑原昌道師で100代を数えるといわれる(詳細は不明)、真言宗の古刹です。
見事な朱塗りの山門をくぐると、立派な金堂が目にはいります。昭和20年の戦災で、寺内の建物は全焼したといいますが、昭和35年、京都大学の村田治郎教授および棚橋諒教授の設計管理により、当時の建築技術の粋を集めて復興されました。
金堂には、美術院国宝修理所制作の本尊と並んで見事な木製の弘法大師像が安置されています。1437年、七条仏師の康秀(こうしゅう)の作といわれ、大阪府の指定文化財となっています。木製ならではの風合い、力強く凛々しいお姿には、思わず心を打たれずにはいられません。
金堂横には、以前この寺の檀家であったという、高浜虚子の高弟、俳人・阿波野青畝(あわのせいほ)の句碑があります。1974年の文化の日、大阪府芸術賞授与された際、大阪の前途を祝して詠んだという次の句が刻まれています。 「動く大阪 うごく大阪 文化の日」
藤次寺は、藤原鎌足から数えて四代の孫、藤原冬嗣公の発願により、その甥である任瑞上人を開基として建立されたと伝えられています。藤原氏を治めるために建立されたため『藤治寺』と号し、藤原氏一門の祈願寺として栄えてきました。
太閤秀吉の大坂城築城にともない現在の地に移転、加藤清正を大檀主として、金堂、諸霊堂、庫裡などの壮大な伽藍が建立されましたが、その後盛衰を経た後、1764年(明和元年)、中興・清範和上の代に、九條尚実公から祈願寺としての旨辞(しじ)を授かり、九條家の永代祈願寺として幕末を迎えました。
明治維新の廃仏毀釈によって、生玉神社の十坊の一つ『地蔵院』を併合し『藤次寺』と改め、現在に至ります。
藤次寺の本尊は宝生如来、即ち如来の五徳を表した「如意宝珠融通尊(にょいほうじゅゆうずうそん)」である。「如意宝珠」とは招福除災を祈願する理想の宝です。『大日経』という経典には「浄菩薩心如意宝」、つまり人々がその内に持っている清らかな本心こそ、功徳無尽の如意宝珠に等しいと説かれていて、如意宝珠を礼拝することによって私たちの内なる宝、すなわち清らかな本心を磨いていくことこそが本当の密教の教えである、とされています。
如意宝珠融通尊への信仰は中興・憲遵阿闍梨(けんじゅんあじゃり)の頃より盛んになり、「大阪の融通さん」の愛称で親しまれるようになりました。中でも、「融通」が「お金を融通する」に通ずるとして、商いをする人々から厚い信仰を集めています。今でも、毎月1日、11日、21日の御縁日と、2月3日(または4日)の節分祈願祭には2000人近い人々が参詣に訪れます。
名称
如意山 藤次寺
業種
寺院
所在地
アクセス
谷町九丁目交差点南西角
※地下鉄谷町線谷町九丁目3番出口から徒歩1分
電話番号
06-6771-8144
営業時間
開門時間〔平日〕6:00-18:00、
〔縁日〕5:00-21:00
※縁日は毎月1日、11日、21日