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今月の特集
貧しい人々を救った浪花の名医と社会事業家
貧民に無料診療を行い、治療法も伝授
近現代のような医師免許制度がなく、独学でも医者になることができた江戸時代。朝廷や幕府、藩に仕える専属医と、町の開業医が活躍していた一方で、公的な社会保障制度はありませんでした。治療を受けられない貧しい人たちの医療は、医者の人徳に委ねられていたのです。
田中金峰(1844〜1862)は、15 歳の若さで医学寮を開き、医者として診療にあたった人です。医学と儒学を教え、漢方の施薬院も設立して、恵まれない人たちには無料で治療を行いました。
北山寿安(?〜1701)は、薬草家の父から製薬法を学び、豊前(福岡)小倉藩医の身分を捨てて道修町で医院を開きました。製薬・調合法の指導にも熱心だったため、教えを乞う人々が集まったことが、薬のまち・道修町誕生のきっかけとの説もあります。
白内障治療で奇跡的な技を見せた三井棗州(?〜1833)も忘れることができません。当時の眼科手術は瞳孔を傷つけやすい「馬島流」が主流だったため、眼球の側面からメスを入れて水晶体を削り落とす「横緘術」を開発。手術レベルの向上に貢献しました。
妙寿寺
田中金峰が眠る妙寿寺
太平寺
北山寿安が眠る太平寺
浄春寺
三井棗州が眠る浄春寺

※妙寿寺、浄春寺では一般公開しておりません。
大阪発の本格的な医療機関
西洋医学普及のきっかけとなったのは、鎖国下で入ってきた蘭学でした。1774年、前野良沢・杉田玄白が「解体新書」を翻訳。1823年にドイツ人医師シーボルトが来日し、医学教育を行うようになりました。緒方洪庵が船場に開いた適塾も、医学・医療を教育する私塾として始まっています。
明治期(1868〜1912)に入ると、新政府によって、さまざまな欧米の仕組みや制度が導入され、本格的な医学教育と医療制度も始まります。大阪府も、大福寺の境内に浪華仮病院を設立。明治2(1869)年、適塾を開いた緒方洪庵の次男惟準を院長に、オランダ人医師ボードウィンを主席教授に迎え、診療を開始しました。財政難のために拡張はできず、半年後にいまの大阪国立病院付近に移転しましたが、これが大阪大学医学部の前身となったのです。
ボードウィンは陸軍創立者の大村益次郎が襲撃された際の主治医となり手術を行ったことでも知られています。
記念碑 顕彰碑
写真左は大福寺門境内にある、惟準とボードウィンの肖像を施した記念碑
写真右はボードウィンが居住していた法性寺(ほっしょうじ)山門前の顕彰碑

資材を投げ出し、社会問題を研究
大原社会問題研究所
やがて大正期に入り、米騒動など社会問題が深刻化するなか、私財を投げ出して福祉事業を行う民間人も現れました。大原社会問題研究所は、大正8(1919)年に、倉敷紡績の社長だった大原孫三郎(1880〜1943)が設立した研究機関です。
社内の労働環境の改善に熱心だった大原は、日本初の孤児院を創立した石井十次の思想に共鳴し、困窮者を支援する「石井記念愛染園」を設立。活動に取り組むうちに、貧困を生む社会背景を知ることも大切と考えるようになり、研究所を設立しました。
研究所は財政難のために、大原の手を離れましたが、新たに法政大学大原社会問題研究所が発足。また、当時の資料は大原文庫として大阪府立中央図書館に所蔵されています。

※現在の大阪府立特許情報センター(大阪市天王寺区伶人町2-7)が研究所の跡地
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